夏の終わり、まだ暑い日が続く10月の沖縄。
20才の私は念願の沖縄の地を踏んだ。
空港から那覇市内に出ると、まずは本屋さんで賃貸情報誌を購入。すぐに不動産屋に電話をかけて、いくつかの物件を見に行った。
窓の外にはフクギとヤシとパパイヤの木、それに今では世界遺産に登録されている首里城が見える。夕方になるとどこからか聞こえてくる三線の音色……。那覇市の中心地、国際通りから徒歩5分、築25年のオンボロ2DK(お家賃なんと3万5千円!)を人生初の自分の城に決めた。
ところが見つかったところで、すぐに住めるわけじゃーない。
契約書のことを何も考えていなかったのだ。当時の沖縄では、部屋を借りるために必要な保証人は県内の人でなければいけないというルールがあった。
もちろん知り合いもいないし、どうしよう……と困っていると、「しょうがないから、県外の保証人を2人用意してくれればいいさ〜」と寛大なお言葉。
しかし契約書を郵送して、保証人の判をもらって送り返してもらう間、部屋には入れない。親切な不動産屋さんの紹介で季節外れの民宿にたどり着いた頃には、すっかり夜になっていた。
そして1週間後、無事オンボロアパートの鍵を手に入れ、今度は仕事探し。
当時はいわゆる沖縄ブームの初期で、他県からの移住は今ほど多くなかった。そのためちょっとした偏見もあってか、「どうせすぐ東京に帰っちゃうんでしょ」という理由で断られ続け、仕事探しは難航。あっという間に時間が過ぎていった。
1ヶ月が経ってお金も苦しくなってきた頃、小さな出版社で新雑誌の立ち上げスタッフの求人を見つけた。全国の沖縄好きに向けた情報誌で、今までの沖縄タウン誌にはないおしゃれ感が売り。それ以外にも沖縄の音楽や食に関する書籍を作ったり、県内の広告も請け負っていた。
こんな会社で仕事ができたらいいなぁ〜、とダメもとで面接を受けに行き、何にもできないクセに「何でもできます!……教えてくれれば」とゴリ押しし、なんと運よくデザイナー兼イラストレーター(実態は雑用という噂も……)として雇ってもらうことになったのだ。

これで沖縄ライフは安泰!
しかも大好きな絵に関われる仕事。捨てる神あれば拾う神ありって本当だなぁ、と大感激。しかもその拾う神は、社会のことをなーんにも知らない生意気な小娘に、macの起動方法や出版のルール、さらに一般常識まで、ありとあらゆることを教えてくれた。
大学に落ち続け仕事探しもうまく行かず、かるーく自信喪失していた私にとって、初めて手にした仕事は、楽しくて面白くて仕方がなかった。
そして何より、大勢の人の目に触れる媒体に自分の描いたイラストやデザインが載るということ! 今まで知らなかったプレッシャーと達成感があった。ちょっとでも関わった仕事は、キレイにファイリングして手当たり次第人に見せては自慢していたっけ。
ただ、それまで「イラスト」という言葉にあまりいいイメージを抱いていなかったのも事実。画家を目指して、アカデミックに「絵画」を考えていた私にとって、「イラスト」は「絵画」と別のもの。
もっと正直に言うと、「イラスト」は「絵画」より全然簡単なものだと思っていた。
しかし実際にやってみるとなんとも奥が深い!
「絵画」と違って、同じ紙面に文章とイラスト、時には写真も一緒に入る。だからバランスを考えて、伝わりやすいように効果的に描かなくちゃならない。印刷した時のことを考えて発色のいい画材を使ったり、視点がバラつかないようにポイントを絞って構図を作ったり。
主観よりも客観性。
「絵画」で簡単だったところが「イラスト」では一番難しいってことが分かった。
自分の個性を出そうなんて余裕は全くなかったけれど、本屋さんでイラストレーター年鑑を買ってきては、構図や色使いを参考にしたり、フライヤーを集めてどんなイラストが使われてるか調べたりして、自分なりに研究した。試行錯誤を繰り返しているうちに次第に「イラスト」が好きになっていった。
入社して1年後。
仕事と沖縄ライフに慣れる頃には、こんな風に思うようになっていた。
“今の時代、画家なんて非現実的よね。やっぱり商業よ、イラストレーターよ。大学に行けなかった分、実社会のことをたくさん学んで、実用的な技術をみがいて、大学を卒業する年よりもっと早く、絵で飯が食えるようになってやるー!!”
何とも青いこの叫びが、「絵かきさん」に続く人生2度目の決意だった。