“The long and winding road" かのBeatlesの名曲。むかーしむかし、私が生まれたその瞬間、ラジオから流れていたのがこの曲だったそうな。照れ屋で頑固者の父は、機嫌良く酔っぱらうと度々そう話して聞かせてくれた。とても父らしい、ロマンチックなエピソード。
今では、同じくロマンチストな私のお気に入りの曲のひとつになっている。
しかし、まるでポール・マッカートニーが暗示したかのように、30年後の私が「画家」という“The long and winding road:長く曲がりくねった道”を歩むことになるなんて、さすがの父も想像していなかったろうに。
東京の下町。
昔ながらの木造家屋がひしめき合い、路地には植木鉢やビールケースなんかが道にはみ出して無造作に積まれている。子どもたちはロウセキで道に落書きをしたり、トンボを取ったりして、日が落ちるまで遊び続ける。口うるさいけど、とっても親切な近所のおじさんおばさんたちは毎日同じ時間に銭湯へ出かけていく。
そんな風景が当たり前の荒川土手のふもと、「金八先生」でおなじみの町で、私はすくすく大きくなった。

私の2人の祖父にはそれぞれ特技があった。
父方の祖父は、本業の花火職人の傍ら書道を趣味にしていた。書道4段の腕前を持つ祖父は、近所の人に頼まれては垂れ幕や掛け軸を書いていた。書斎を覗くと、いつもキチッと背筋を伸ばして正座し、墨をすったり書を書いたりしていた。そんな姿は子どもの目にもなかなかカッコよく映ったものだ。
徒歩20分のところに住む母方の祖父は、靴の職人をしながら油絵を描いていた。絵画教室を開いたり、イーゼルとスケッチブックを持って外に行っては、きれいな風景画を描いていた。遊びに行くと、色鉛筆やクレヨンを出してきて一緒にお絵かきをしてくれたっけ。
初孫だった私は、両方の祖父から書と絵を少しずつ遊び程度に教わっていたのだけど、なぜだか幼心にも「小学生になるまでに、どっちを継ぐか決めなきゃいけない」と思い込んでいた。きっとテレビドラマか何かでそんなシーンを見ちゃったんだろうな。だって家族の誰もそんなことは言っていなかったし、私が悩んでいたなんて知らないハズだ。
ひとり勝手に悩みに悩んだ挙げ句、決めたのが「絵かきさん」。理由は「たくさん色があるから」だとか「何回も塗り直せるから(書は1回勝負でしょ)」だとか、他愛のないことで決めた気がする。
これが絵にまつわる最初の記憶、そして現在に続く迷宮への最初の1歩だったわけ。
生まれてからずっと当たり前だった、家族がいつも家にいて、何かを作って生計を立てるという「職人」の生活。そんな環境が与えてくれた影響も大きかったと思う。
そんなアホな子供も18才になると、画家になるなら美大に行くのが当たり前、ということで、美術系の中学・高校を経て、迷わず芸大美大受験専門の予備校に。
予備校では、毎日朝9時から夕方5時まで(入試前になるとなんと夜9時まで!)ひたすら絵を描く。
目標はズバリ芸大合格!
描いた作品は講評会で先生に酷評され、講評会の後はお茶やお酒を飲みながら絵の話をしたり、学費稼ぎのためにバイトをする。家に帰ったら、その日使った筆をお風呂に持って入って、身体と一緒に洗う。女の子らしく身だしなみを気づかうこともなく、絵の具で汚れたきたなーい格好。映画「はちみつとクローバー」でも舞台になった画家志望たちの日常は、実際のところ残念ながら色気もへったくれもないのだ。
ひたすら絵を描く日々が続いて、結果といえば……惨敗。
翌年も、その次の年も……。結果、2浪もしたのにどこにも入れないよ状態。
自分で言うのもなんだけど、予備校での成績はなかなか良かったし、それなりにいい絵を描いていた。
しかし、日本は広かった!
当時の東京芸大油絵科の倍率はおよそ40倍。一次試験が行われた両国国技館いっぱいの受験生の中から、受かるのはたったの60人……。上手な人なんて山ほどいるし、年に一度しかない大勝負に何を描けばいいかが分かるほど、私は絵を知らなかった。当時の恩師は落ちた理由についてこう言っていた。
「才能と気分だ」
う〜ん、まさに。
人は挫折し続けると逃げ出したくなるもんです。
まだまだ遊びたい盛りの20才。もう1年挑戦しよう! とは、どうしても思えずに、思いきって沖縄に移住することにした。
初めて17才で訪れてからというもの、あの石畳と赤瓦の風景にずっと憧れを抱いていた。あったかくて、海がきれいで、のんびりしてて。あ〜、また旅行に行きたいなぁ……、あれ? そんなに好きなら住んじゃえばいんじゃない? くらいの、軽〜い気持ちで決めたのでした。
洋服と絵の道具を段ボールに詰めて、引越しの準備完了。バイトで貯めた50万円を持っていざ空港へ!
憧れの沖縄生活へと期待に胸膨らませつつ、次回へ続く。