沖縄の冬は、2年目からが辛い。
本土と比べればもちろん暖かいから、最初の年はとても楽。
だけど、次の冬が来る頃にはすっかり身体が油断しているのか、「最低気温10度」程度でもひどく寒く感じるのだ。特に2月頃の強い風と長く続く雨はたーいへん辛い。
出版社に入って1年と少しが過ぎた冬のある日。シショー(師匠)がふらりとやってきた。

“シショー”とは本土からの沖縄移住組の1人で、県内でトップクラスのデザイナー。
私が入社した時は直属の上司だったが、その後フリーランスになった後も外注スタッフとして社内のほとんどのプロジェクトでアートディレクションを担当していた。
ビールとプロレスとパンクが大好きで、デスクトップはアントニオ猪木、BGMはピストルズ。細身でヒゲ面、ビールを飲みながら少しホロ酔い気分で仕事をしていても、マウスを持つ手はピタッと止まる。きっとこの人酔拳とか使えるでしょ、と思わせるナイスミドルだ。しかも私とシショーは血液型も干支も星座もぜーんぶ一緒。どうにも他人という気がしない。
普段は何も言わないけれど、私が作ったデザインのチェックをお願いすると、とても丁寧に根気強く教えてくれる。私が在社中に覚えた技術は、全てシショーから教えてもらったものだ。
その時の私は、とあるテーマパークの園内イラストMAPの制作が大詰めを迎えていて残業中だった。やりがいのある大きな仕事だったものの、ひたすらmacに向かい続けて1週間、さすがにダルい。
そこに、そのプロジェクトのデザインを担当しているシショーがフラリと様子を見にやってきたのだ。
「おっ、出来てきたねぇ」
「うーん、でもやってもやっても終わらなくって。大変っす」
「どれどれ。うわーこりゃ細かいな」
「でしょー」
と、いつものやりとり。しかし次のシショーの何気ない一言に、私は衝撃を受けた。
「こんなのフリーで受けたら30万くらいになるのにね」
「えっっっっっ…!!」
30万と言えば、当時もらっていた手取りの2倍を軽く超える金額。残業代ナシの安月給でほぼ毎日深夜まで作業していた私には、宝くじ3億円!くらいのインパクトだった。好きな時間に好きな仕事をして、そんなにお金がもらえるなんて!(注:実際にはそんなにもらえません)
「フリーランス」という耳にしたことがある程度だった言葉が、急にリアルになった。“こっちの水はあーまいぞー”と歌い出したのだった。
そこからの私の行動は早かった。
シショーにフリーランスとしてやっていくためのもろもろ、例えば営業ってどうすればいいのかとか、必要な書類とか、確定申告をしなきゃいけないってこととか、たくさんのことを教えてもらい、会社に辞表を提出。引き継ぎと準備などなどで3ヶ月弱はかかったけど、夏が来る前にはフリーイラストレーターとして、名刺を配りまくる日々がはじまっていた。
とはいえ会社にいたのはたったの1年半。デザイナーとしても人間的にも半人前の私が、イラストレーターだとはいえフリーランスを名乗るなんて、ちょっと気が引けたのも事実。そこで退社理由はテキトーにウソをついちゃおうと決めた。
そのテキトーなウソとは…「画家になりたくて」。
今にして思えばウソじゃなかったけど、当時は何てうまい言い訳だろうと自画自賛していた。沖縄のみなさん、ごめんなさい。あれウソでした。
「金に目がくらんだ」が本当の理由です〜〜〜。
さておき、築25年ゴキブリとヤモリが月イチで大発生する部屋をオフィスと呼び、自分の仕事は自分で探すという綱渡り生活が始まったのだった。
“安い、早い、わりとうまい”を売り文句にひたすら営業の日々。
「何でもやりまーす」「仕事くださーい」があいさつ変わりになった。
何の保証もないフリーランス生活。月収は50万円を超えることもあればゼロのこともあった。何度も破産の危機を迎えながらも何とか生き延び、そんなスリリングな状況が徐々に楽しくなっていった。そしてふと気がつくと、仕事以外で絵を描くことは全くといっていい程なくなっていた。そして、それに疑問を持つことも。